石を投げない意思

 ロナが話題の中心にいるようになってしばらく経つ。1周回って新鮮なんじゃないかって錯覚しそうになるくらい。基本的に暗い話とか攻撃的な感情でコーティングされた話は好きじゃない。だからコロナの話は正直鬱陶しい。一方で外出自粛とかのおかげでskypeとかゲームのリモートプレイとかについて知識が増えたのは喜ばしい。遊びの幅が狭まることで、むしろ幅とか奥行きが出た部分もある。生き残るのは強いやつじゃなくて適応できるやつら。

 人に思いを馳せることが苦手な自覚がある。どうでもよくて関心が持てないことがある。無理に仲良くする必要なんてない。でも攻撃する気もない。好きにしていいから好きにさせて。喧嘩をしない程度に好き勝手しよう。そんな風にできたら楽なのにと思うけど、これが結構難しい。

 撃的な人がいる。自粛をしないなんて我がままだ。稼いでる分損を飲め。けれどその人達のどれだけが3か月分・半年分の収入を捨てて、費用を払って自粛を選べるんだろうか。安全なとこから石を投げてるだけなんじゃないだろうか。実際自粛してもらわないと困るにしても、石を投げずにはおけないか。

 知は怖い。死に闇にコロナ。古来より未知には形を与えていた。妖怪の仕業、神の仕業、魔女の仕業、あいつの仕業。神には生贄を、魔女には死を与えて安心を得てきた。コロナも誰かの失敗、誰かの無自覚を責めることで(それが勘違いでも)安心しようとしてるように思える。本当に良くないことでも、それを責めることで事態が好転しなくても騒ぎ、石を投げる。そうすることで安心を得る。人間性を削って。それは幸せにつながるのか。

 い事を通して触れたからか、演劇には今回の自粛に対してとても同情的な気持ちがある。でも音楽のライブや飲食店にはそこまでの同情心はない。結局自分の関心が薄いものに心からの同情をすることは難しい。会ったこともないアフリカの子供が何人餓死しても心は動かない。小学校のころ、授業でアフリカの子供は何十秒に1人命を落としていると聞いた。授業が終わるまでアフリカの子供はいったい何人死んだのだろう。生徒も先生もいつもと同じ顔をして授業を終えた。学校卒業式で泣いた女の子だって、みんなに優しいあいつだって平気な顔をしていた。でもこれを心ないと責める人はどれだけいるのだろう。

 からみんな思える人はきっといい人だ。少なくとも自分はいい人じゃない。なれるとも思わない。だからせめて不必要に傷つけることがないように、石を投げずに済むように。正しいことなんてないし、許されないことだってもない。強く柔軟に心を持てたら。

 

 

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東日本大震災のときは、被害自体はほとんどないけれど多少の不自由がありました。それは非日常として楽しめる範囲のもので、思い出としてそんなこともあったなと言えるものでした。そのときも震災で不幸に見舞われた人達を可哀そうだなと思いはしても、我がことのようにまでは思えなかった。

・世界のさまざまなことを我がこととして思えたら、夕べには骸になっているんじゃないかとは思う。毎日死んでいく、壊れていくものたちにきっと耐えきることができない。

・楽しいこと、、、、キーマカレーを作ってみたんだけど思った以上においしいし、鍋の容量も少なくてすむからちょくちょく作っていきたいね。横浜舶来亭カレーフレークはおいしい。

・腕立て伏せのノルマも毎日できてるし、着実にプラスアルファもこなせてる。練習がなくて運動が減ったせいか、体重がちょっと増えたからその辺は対応しよう。

・非常事態宣言出たら自宅待機になる説があるからそうなったら、積読を消化しよう。いや、普段の土日も最近は特に忙しくないから手は付けられるんだけどね。

・心を健康に保つには楽しく、悪意を保持せずに生活していくのが大切だから、明日も楽しく生きていこう。