できないことが枠でできることが中身なのでは説

自分を形作っていくとは一体何か

今考えていたのはできないことを明らかにしていくことでシルエットが決まっていき、できること、やりたいことが重なっていくことで内部の色や表情が決まっていくというイメージ。

少し話の方向性が違うが小説の『四畳半神話大系』の「可能性という言葉を無制限に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」というセリフをときどき思い出す。結局今ある自分で生きるほかないし、そのうえでどうするかが肝心だと思う。たらればを思っても最近心地よさを感じなくなってきた。思うとなんかもやっとする。負けたようなかっこわるいような。たぶん変に意識しすぎてるのが原因。高2病にどこか近い部分があるのかも。

できないことしたくないことが自分の行動、思考の枠を作り出し、その枠の中にできることやりたいことをぶちまけて、そこに出来上がるのが今の自分なのではないだろうか。

型にはまるのはとか、枠にとらわれるのは良くないなんていうけれど、その中身を見つめて、熟成させることで生まれるものもあると思う。枠を拡張していく生き方もあるのだろうけれど、どこかで枠を固めて深く複雑にしていく舵取りも悪くはないのかもしれない。

枠を壊したまま自分の中身をぶちまけても形のない抽象的なものになるのではないかという危惧もある。もしかしたらすっぱい葡萄なのかもしれないけど。

というか枠をこわすとは広げるとはなんだ。どうするのだ。

まさに今、枠を広げていこうとしている友人がいるなと思っていたが、よくよく考えると特定のコミュニティで流行りの思考の指向性に沿って新しいこと、経験を志向している感じだ。これは枠を広げるというよりは、その指向性の枠の中に経験をぶち込んでいる状態なのではないか。深く濃くしようとはしているけれど、枠が拡張している印象ではない。実際にやってない自分の目線ではあるが。

考えるのが面倒になってきたので切り上げる。

ひょっとしたら今取り上げた「枠」は壊すとかそういうものではないのかもしれない。

 

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中庸にあこがれる。中庸であれたら面倒なことに心を煩わされなくていいのではないかという気持ちがあるようだ。

コーヒーの香りがようわからん。甘味があるのはなんとなくわかる。飲みやすさに近いものを感じた。ごくごく飲めるような。でも酸味があるやつも飲みやすさはあるっちゃあるけど。わからん。

金欠です。見通しが甘かったです。転職でのあれこれはまだ終わっていなかったのだ。

転職してから、転職をしたがっていたころのハングリーさはなくなりました。腑抜けています。勉強の意欲も冬休みで塵と消えました。不慣れな面での疲れもあって、今非常にダメ人間です。一週間くらいだらけたい。

風邪ひいてます。ぐだぐだ長引いてます。有給ないので休むと8000円くらいの損失です。医者いって、お高めの栄養ドリンク買ったほうが安いです。でも風邪だって言って会社休みたさもあります。

体温計買ったけど5分くらいかけないと体温測れないのめんどいです。あと平熱低くなった疑惑があります。36.5から35.8くらいになったかもかも