技術あるものに人格を求めること

 高い技術を持つ人に人格者であることを求めることへの批判を目にした。ときどきこういった内容の話は目にする。個人的にも優れた人格というのは、環境、努力、才能によって形作られるものであり、優れた技術や才能と同列に扱えるもので、これらに付随するものではないと思う。プロ野球選手が当然にサッカーもプロ級にできるかというとそうでないのと同じように。優れた技術を持とうとも、彼らは私たちと同じ人であり、ご飯を食べるし、腹が立つこともある。

 しかし、何故技術を持つ者に人格も求めるのか。あこがれからくる自らの理想の投影が真っ先に思い浮かぶ。こうあるべきという考えは目に映る世界をさらに歪めようとしてくる。その他に考えられるのは、そうでないと都合が悪いから、というものだ。記事を書く前になんとなく「人格者」を検索し、結果の中のひとつを覗くと、優しく博識で導いてくれる自分に都合の良い人間を人格者と呼んでいるだけではないかといった気持ちにさせるものがあった。もちろんそこまでひどくない内容のサイトもあったが。確かに優れた技術を持つ者が自分に都合のいい人間ならなんと便利だろうかとは思う。意識的、無意識的にそういったことから人格者であることを望む人いるのかもしれない。

 余談だが、孔子曰はく「巧言令色鮮し仁」なり、という言葉があった。彼によれば口や愛想のいいやつはいまいち信用ならないらしい。それでどちらかといえば無骨な人の方が仁を備えている割合は高いのだと。下手に書くと自分に跳ね返ってくるので書かないが、言われれば確かになといった感じである。眠いのでこの話はトンボになっていただく。日本で職人気質というと不愛想なイメージがあるね。不愛想な人だから職人でいられたのか、職人にならざるを得なかったのか。職人であると、あるいは技術を習得すると愛想がなくなっていくのか。トレードオフ的な。目立つだけという説もある。それしかないから頑なになっているのか。

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眠い。イヤホンしてたからよくわからなかったけど、昼にセミが鳴いてた気がする。この前19時になっても日が暮れてなくてびっくりした。別の日には夕暮れがやたら黄色くて印象的だった。なんだかそわそわしてきょろきょろしながら帰ってた。お目目休めておやすみしよう。「目の色変えろ」ってモノクロの絵の目の色だけ「目」って文字にかぶせて色変えてたポスターが何年か前に見て印象的だった。もーど学園かなんか。